- 反物質って、SF映画の設定みたいなものですよね?
- 1グラムで都市が消えるって、本当なんでしょうか
- 宇宙から反物質が消えたって、どういう意味?
結論から書きます。反物質は実在します。
1932年に最初の反粒子が見つかって以来、加速器で日常的に作られ、病院のPET検査でも毎日使われています。
この記事は、宇宙の科学と宇宙産業の情報を一次情報と整合させて発信するASTROWORKS編集部がまとめています。
この記事で分かることは次の通りです。
- 粒子と反粒子で、何が同じで何が逆なのか
- 対消滅のエネルギーを、光速の定義値から自分で計算する手順
- CERNが1年フル稼働して作る反陽子の、エネルギー換算の公表値
- 宇宙から反物質が消えた謎が、どこまで解けていてどこから未解決なのか
読み終わる頃には、ネットで流れてくる反物質の話のどこまでが物理で、どこからが誇張なのかを、自分で切り分けられます。
ほしまるぼくは40年かけて太陽系をまわってきたけれど、道中で反物質でできた星に出会ったことは一度もないんだ。どうして見当たらないのか、いっしょに考えてみようよ。


反物質は電荷などの性質が反転した物質で、理論が先に予言し実験が後から見つけた
「反対の物質」というイメージだけでは、反物質の正体はつかめません。
何が反転していて、何が同じなのかを先に整理します。
反粒子は質量が同じで、電荷などの量子数が逆の相棒
反物質の最小単位は反粒子です。
CERNは反粒子を、「すべての物質粒子には、電荷が反対であることを除いて、性質が一致する対応する反粒子が存在する」と説明しています(出典: CERN「Antimatter」)。
いちばん分かりやすい例が、電子と陽電子の組です。
質量は同じ、けれど電気の符号が逆。
電子がマイナスなら、陽電子はプラスです。
ただし、逆転しているのは電荷だけではありません。
KEKの説明では、すべての粒子は「同じ(加法的)量子数が正負反対であるような反粒子の相手」を持ちます(出典: KEK キッズサイエンティスト「粒子と反粒子」)。
量子数という言葉が出てきました。
イメージとしては、粒子が持ち歩いている符号つきの帳簿の数字だと考えると分かりやすいです。
電荷はその帳簿に載っている項目のひとつにすぎず、他にも符号のつく項目がいくつもあります。
反粒子では、その帳簿の数字がまとめて符号反転します。
だから、電荷がゼロの粒子にも反粒子が存在します。
KEKによれば、符号を持つ量子数をひとつも持たない粒子だけが、自分自身の反粒子とみなせます。
逆にいえば、電気的に中性でも他の量子数を持つ粒子には、別の相手がきちんと存在するわけです。
「電荷が逆であることが反粒子の定義のすべて」と覚えてしまうと、ここでつまずきます。
反陽子と陽電子が組めば反水素という反物質の原子ができる
素粒子ひとつずつの話と、原子としての反物質の話は別ものです。
ふつうの水素原子は、プラスの電荷を持つ陽子のまわりを、マイナスの電子が回っています。
これをそっくり反転させると、マイナスの電荷を持つ反陽子のまわりを、プラスの陽電子が回る原子になります。
これが反水素です。
反水素は理論上の存在ではありません。
CERNのALPHA実験は、「反水素をつくることは、2つの構成反粒子である反陽子と陽電子を、荷電粒子用の捕獲装置の中で出会わせることにかかっている」と説明しています(出典: CERN「ALPHA」)。
実際に2010年11月17日、CERNは反水素原子の捕獲成功を発表しました。
このときは38個の反水素原子が、研究に足るだけの時間だけ捕まえられています。
保持できた時間は約10分の1秒でした(出典: CERN「Antimatter atoms produced and trapped at CERN」)。
38個、10分の1秒。
数字だけ見ると心もとなく感じるかもしれませんが、物質でできた壁に触れた瞬間に消えてしまう相手を、原子の状態でつなぎとめた成果です。
CERNは現在、原理的には今の技術で最大10万個の粒子をこの方式で保存できるとしています(出典: CERN「Antimatter」)。
この十数年で扱える規模が大きく変わったことが分かります。
ディラックの方程式が予言し、4年後に陽電子が見つかった
反物質の面白さは、実験より先に数式が存在を言い当てた点にあります。
CERNによれば、1928年、イギリスの物理学者ポール・ディラックが量子論と特殊相対性理論を結びつける方程式を書き下ろしました(出典: CERN「Antimatter」)。
この方程式には、当時知られていた電子だけでは説明のつかない解が含まれていました。
数式のほうが、まだ誰も見たことのない粒子の解を示してしまったわけです。
そして1932年、カール・アンダーソンによる陽電子の発見によって、この粒子の存在が実証されます。
ディラックはこの方程式で1933年にノーベル賞を受賞しました(出典: CERN「Antimatter」)。
予言から実証まで4年。
理論物理の歴史のなかでも、当たり方が鮮やかな例です。
設計上の要請から出てきた解が、後から実物として見つかる。
シミュレーションで先に挙動を詰めてから実機で確かめる開発の進め方に近いものを感じる方もいるでしょう。
違うのは、確かめる対象が自分たちの作った装置ではなく、宇宙そのものだったという点です。


物質と出会うと対消滅し、質量がまるごとエネルギーに変わる
反物質のエネルギーとして語られるものの正体は、対消滅という現象です。
何が起きて、どれだけのエネルギーが出るのかを順に見ていきます。
電子と陽電子の対消滅ではガンマ線が出て、ほぼ正反対に飛ぶ
粒子と反粒子がぶつかると、両方とも消えます。
CERNは、「粒子と反粒子はつねに対で生成され、接触すると対消滅して、主として光子とパイ中間子の形でエネルギーだけを残す」と述べています(出典: CERN「Antimatter」)。
パイ中間子は、陽子より軽い素粒子の一種で、クォークと反クォークが結びついてできています。
電子と陽電子の対消滅で主に出てくるのはガンマ線(光子)ですが、陽子と反陽子のようにより重い粒子どうしが対消滅すると、パイ中間子も生まれます。
出てくるものが何になるかは、どの粒子どうしが出会ったかで変わります。
「対消滅すれば必ずガンマ線が2本」と一律に覚えるのは正確ではありません。
一律の説明が当てはまるのは、電子と陽電子の組です。
日本原子力研究開発機構のATOMICAは、陽電子が「組織近くの電子と結合して消滅する際に、電子の静止質量相当のエネルギー(511keV)をもつ極めて短い波長(2.43pm)の電磁波(光子)を2つ放出」すると説明しています(出典: ATOMICA「PETの原理と応用」)。
keVは電子ボルトという素粒子分野のエネルギー単位で、511keVは電子1個の静止質量に相当する量です。
そしてこの2つの光子は、「陽電子消滅のあと互いにほぼ反対方向に飛び去る」とされています。
方向まで決まるのは、運動量保存という基本原理が働くためです。
ほぼ静止した状態で消えるのですから、飛び出す2つの光子の運動量は打ち消し合わなければつじつまが合いません。
結果として、ほぼ正反対の向きに背中合わせで飛んでいきます。
この地味な性質が、後で出てくる医療機器の心臓部になります。
質量あたりのエネルギーは核反応を大きく上回るという計算になる
対消滅の桁違いさは、質量が「まるごと」エネルギーになる点にあります。
核分裂の場合、エネルギーとして取り出せるのは原子核の質量のごく一部です。
ATOMICAによれば、中性子の吸収による核分裂では1核分裂当たり2億電子ボルト(200MeV)程度のエネルギーが放出されます(出典: ATOMICA「核分裂」)。
これはウラン原子核が丸ごと消える量ではなく、分裂の前後に生じる質量の差から出てくる分です。
対消滅は、そこが違います。
では実際に計算してみます。
反物質1グラムと物質1グラムが出会えば、消えるのは合計2グラム、つまり0.002キログラムです。
真空中の光の速さは国際単位系の定義定数で、299,792,458 m/s と定められています(出典: 産業技術総合研究所 計量標準総合センター「国際単位系(SI)」)。
E = mc² に入れると、0.002 × (299,792,458)² は約 1.8 × 10¹⁴ ジュールになります。
1キロワット時が360万ジュールですから、およそ5000万キロワット時に相当する計算です。
大事なのは前提の置き方です。
「反物質1グラム」と書かれていても、その反物質は物質1グラムとセットでなければエネルギーになりません。
数字だけが独り歩きしやすい部分でもあります。
何グラムが消える計算なのかを確認する癖をつけておくと、記事によって数値が食い違う理由が見えてきます。
ただし人類はその計算に必要な量の反物質を持っていない
ここまでの計算は正しいのですが、大きな条件がひとつ抜けています。
1グラムの反物質を、人類はまだ手にしていません。
CERNは反物質工場の生産規模について、次のように公表しています。
All the antiprotons produced by the Antimatter Factory running non-stop throughout a whole year would equate to about 500 Joules of energy, enough to light a 100 W light bulb for five seconds.
出典: CERN「Antimatter」
日本語にすると、「反物質工場が丸1年間ノンストップで稼働して生産した反陽子をすべて合わせても、エネルギーにしておよそ500ジュール、100ワットの電球を5秒間点灯できる程度にしかならない」という内容です。
1年フル稼働して、電球5秒分。
これが2026年時点で世界最高水準の反物質生産設備の実力です。
先ほどの計算値と並べてみます。
1.8 × 10¹⁴ ジュールに対して、1年分の生産量が500ジュール。
比を取ると、3600億倍もの開きがあります。
「1グラムで都市が消える」という表現を聞いたことをある方もいるかもしれません。E = mc² の計算としては間違っていません。
省かれているのは、その1グラムを人類はまだ作れないという一行です。
物理として否定されているのではなく、生産量の桁がまるで足りていない。
そう切り分けると、話の輪郭がはっきりします。



計算が合っていることと、それが手に入ることは別なんだよね。ぼくの電池も、設計上は10年分だったんだ。


反物質は加速器で作られ、電磁場の檻に閉じ込めて保管されている
触れた瞬間に消えるものを、どうやって作り、どこに置いておくのか。
制御や真空を扱った経験がある方ほど、ここが気になるかもしれません。
高エネルギーの陽子を金属の標的にぶつけて作り、減速させてから捕まえる
反物質づくりの入り口は、意外なほど乱暴です。
CERNの説明では、陽子シンクロトロン(PS)から来る陽子ビームが金属の塊に撃ち込まれます。
この衝突が多数の二次粒子を生み、その中に多くの反陽子が含まれます(出典: CERN「The Antiproton Decelerator」)。
シンクロトロンは、粒子を円形の軌道で回しながら加速する装置です。
ぶつけて、飛び散ったものから目当てのものを選び出す。
作り方そのものは、この一言に尽きます。
やっかいなのは、生まれたばかりの反陽子が速すぎることです。
そのままでは捕まえられません。
だから加速器の後段は、まるごと減速のための工程になります。
反陽子減速器(AD)は偏向・収束用の磁石でできたリングで、強い電場によって反陽子を減速し、光速の10分の1程度まで落とします(出典: CERN「The Antiproton Decelerator」)。
さらにその先に控えるのが、ELENAという小型のリング。
周長30メートルのこのシンクロトロンが、反陽子のエネルギーを5.3MeVから0.1MeVへ、50分の1にまで下げます。
電子冷却でビームの密度も上げており、捕獲できる反陽子の数は10倍から100倍に増えました(出典: CERN「The Antiproton Decelerator」)。
加速器という名前の施設で、最後にやっているのは徹底した減速。
この逆説が反物質研究の特徴です。
容器の壁に触れさせない方法として電磁場のトラップが使われる
保管には、根本的な制約がついてまわります。
容器を作っても、その容器自体が物質でできています。
壁に触れた瞬間、反物質は対消滅して消えてしまう。
だから解は「触れさせない」の一択になり、実際に使われているのが電磁場によるトラップです。
反陽子や陽電子は電荷を持つので、荷電粒子用の捕獲装置に閉じ込められます(出典: CERN「ALPHA」)。
電場と磁場で宙に浮かせておく、と考えると近いイメージが持てます。
ところが反水素になると、話が一段変わります。
CERNのALPHA実験は、「反水素原子は電荷を持たないため、いったん形成されるとそのような装置には閉じ込められない」と説明しています(出典: CERN「ALPHA」)。
電気の力でつかもうにも、つかむ取っ手がないわけです。
そこで使われるのが磁場です。
CERNは、「反水素原子はわずかに磁気的な性質を持ち、非常に強く特殊な形状の磁場の中に捕獲できる」と述べています(出典: CERN「Antimatter」)。
2010年の捕獲成功も、強力で複雑な磁場によって反水素を捕らえ、物質との接触を防ぐ方式でした(出典: CERN「Antimatter atoms produced and trapped at CERN」)。
わずかな磁気的性質を手がかりに、原子ひとつずつを真空中に浮かせておく。
磁気軸受や磁気浮上を扱ったことがあれば、原理の遠い親戚のように感じられる部分かもしれません。
反物質をトラックで運ぶ実験まで進んでいる
閉じ込めの次の課題は、持ち運びでした。
2026年3月24日、CERNのBASE実験が反物質の輸送に成功したと発表しています。
運ばれたのは92個の反陽子からなる雲です。
装置は重量1000キログラムで、トラックに積める大きさ、しかも通常の実験室の扉を通せる寸法に収まっています。
このトラップを積んだトラックが、CERNの主要サイト内を走りました(出典: CERN「BASE experiment at CERN succeeds in transporting antimatter」)。
冒険のためではありません。
目的は測定精度です。
BASEの説明では、現在の設置場所は磁場の変動が精密測定の限界を決めてしまいます。
最終的な目標は、ハインリッヒ・ハイネ大学デュッセルドルフのような施設で、反陽子の性質をきわめて高い精度で測ることです(出典: CERN「BASE experiment at CERN succeeds in transporting antimatter」)。
加速器のそばは、装置が動くぶん磁気的に騒がしい環境です。
静かな実験室へ試料のほうを運べば、より細かく測れます。
やっていることは、ノイズ源から離れた場所で測定を取り直すという発想です。
実験室の測定環境を整えた経験がある方なら、動機は飲み込みやすいでしょう。
違うのは、運ぶ荷物が「触れれば消えるもの」だという一点だけ。
反物質を積んだトラックが構内を走る光景は、SFのようでいて、その中身はきわめて実務的な精度改善の話でした。


宇宙から反物質が消えた謎は物理学の最大級の未解決問題として残っている
ここからが、この記事の核心です。
分かっていること、手がかり、まだ足りていないものを、順に分けて書きます。
ごくわずかに物質が多かった痕跡が、今の宇宙のすべてになっている
CERNの説明によれば、粒子と反粒子はつねに対で生成されます。
だとすると、宇宙の始まりでも物質と反物質は同じ数だけ生まれたはずです。
そして同じ数なら、すべて対消滅して光だけが残り、星も惑星も存在しない宇宙になっていたことになります。
けれど実際には、あなたも地球も存在しています。
CERNはこの食い違いについて、「現時点で最も有力な説明は、ビッグバンの後に未知の機構が物質のごくわずかな差をつくり出したというもので、その量はおよそ反粒子10億個に対して余分な粒子1個である」と述べています(出典: CERN「Antimatter」)。
10億分の1。
残り99.9999999%は対消滅して消え、端数として残った物質だけが、その後の宇宙のすべてになりました。
銀河も、太陽も、地球も、この記事を読んでいるあなたの体を作る原子も、その端数の子孫です。
物質が主役だったのではなく、勝ち残ったのでもなく、帳尻が合わなかった分がたまたま残った。
その残り物で今の宇宙ができている、という見方になります。
なお、CERNの説明でも「未知の機構」という表現がそのまま使われています。
何が非対称を生んだのかは、まだ特定されていません。



ぼくの体を作っている金属も、その10億分の1の生き残りなんだよ。ずいぶん運のいい端数だと思わないかい。
手がかりはCP対称性の破れという、粒子と反粒子のわずかな振る舞いの違い
謎を解く鍵として研究されてきたのが、CP対称性の破れです。
KEKの用語集では、これを「粒子と反粒子の本質的な性質の違いのこと」と定義しています(出典: KEK 用語集「CP対称性の破れ」)。
粒子と反粒子が完全に鏡写しなら、非対称は生まれません。
どこかに振る舞いの差があってはじめて、片方だけが残る道が開けます。
CとPが何の頭文字かも押さえておきます。
KEKのILC通信によれば、C対称性は「その実験現象に現れる粒子を全て反粒子に置き換えても現象の区別がつかないこと」を意味します。
P対称性は鏡像対称性、つまり実験を撮影した映像と、それを鏡に映した映像とが区別できないことを指します(出典: KEK ILC通信「ノーベル賞でたどる素粒子の発見物語:5」)。
この2つを同時にかけても現象が変わらないはずだ、という予想が破れていた。
それがCP対称性の破れです。
発見は1964年でした。
K中間子(クォークと反クォークが結びついた粒子の一種)の崩壊実験の観測から、ジェイムズ・クローニン博士とヴァル・フィッチ博士が初めて見つけています。
両博士は1980年にノーベル物理学賞を受賞しました(出典: KEK「『CP対称性の破れ』発見から50年」)。
そして1973年、小林誠博士と益川敏英博士が小林・益川行列で知られる理論を提唱します。
日米の実験グループは2001年、この理論が予測する大きなCP対称性の破れの検証に成功しました。
これが2008年の両博士のノーベル物理学賞へとつながります(出典: KEK「『CP対称性の破れ』発見から50年」)。
既知のCPの破れだけでは、残った物質の量を説明しきれていない
ここで話が終われば、きれいな結末になったはずです。
実際には終わっていません。
KEK素核研は、「小林・益川理論だけでは物質が優勢の今の宇宙を説明しきれないことから、標準理論とは別の過程でCP対称性を破る新しい物理の探索が続けられています」と明記しています(出典: KEK 素核研「K中間子の稀な崩壊を探し、標準理論の限界に挑む」)。
標準理論とは、現在知られている素粒子とその相互作用をまとめた基本の理論体系です。
つまり現状はこう整理できます。
粒子と反粒子に振る舞いの違いがあることは、実験で確認された事実です。
その違いを理論の枠内で説明する小林・益川理論も、検証を経て確立しています。
足りていないのは量のほうで、既知の破れの大きさでは、10億分の1という非対称を生むには届きません。
そのため研究の焦点は、標準理論の外側にあるかもしれない新しいCP対称性の破れの探索に移っています。
KEKの素粒子原子核研究所が主導するKOTO実験のように、K中間子のきわめて稀な崩壊を狙う実験は、この文脈で進められています。
ごく稀にしか起きない崩壊ほど、既知の理論からのずれが表に出やすいためです。
「CP対称性の破れで反物質の謎は解決済み」という説明を見かけたら、そこは事実と食い違います。
手がかりは見つかったものの、答えにはまだ足りていない。これが現在地です。
宇宙のどこかに反物質でできた天体があるかは、観測で探されている
反粒子は「消えたのではなく、遠くにまとまっているのでは」という発想は自然です。
反物質の銀河がどこかにあり、そこでは反物質の星が反物質の惑星を照らしている。
可能性として、これは真面目に検討されてきました。
現時点でCERNは、「反物質は自然界には存在しない。ただし核反応や宇宙線の反応で生成される単独の粒子は例外である」と説明しています(出典: CERN「Antimatter」)。
宇宙線というのは、宇宙空間から地球に降り注ぐ高エネルギーの粒子のことです。
自然界で見つかる反物質は、こうした反応で単発的に生まれる粒子に限られる、というのがCERNの整理になります。
まとまった量の反物質でできた天体があるなら、その存在は自然界にある反物質の姿として認識されているはずですが、そうはなっていません。
反物質でできた天体や銀河が実在するという確定的な証拠は、まだ得られていない状態です。
だからこそ、探す観測は続いています。
宇宙線に混じる反陽子や反ヘリウムを探す観測は、KEKが参加したBESS実験のように、気球に検出器を載せる形で行われてきました(出典: KEK「宇宙の謎を解く高エネルギー物理学」)。
反物質でできた天体があれば、そこから飛んでくる反粒子が宇宙線に痕跡を残すはずだ、という考え方です。
候補となる事象の報告は出ていますが、査読を経て確立した発見として扱えるものはなく、断定できる段階にありません。
遠くにまとまっている可能性が完全に消えたわけでもない、という中途半端な状態です。
ここは「まだ分かっていない」というのが正直なところです。
反物質も重力で下に落ちることが、直接測定で確かめられた
有力だった説のひとつが、実験で支持されなくなりました。
反物質には反重力が働き、宇宙の彼方へ飛び去ったのではないか、という考え方です。
面白い仮説でしたが、直接測定による検証が行われました。
2023年9月27日、CERNのALPHA実験は反物質に対する重力の影響を観測したと発表しました。
反水素原子を磁気トラップに閉じ込め、磁場を切ったあとに原子がどの高さで対消滅するかを調べる方法です。
CERNは、「現在の実験の精度(gの約20%)の範囲内で、反水素原子の加速度はよく知られた引力としての重力と矛盾しない」と述べています(出典: CERN「ALPHA experiment at CERN observes the influence of gravity on antimatter」)。
上下に抜けた反原子の割合もシミュレーションの結果と一致しました。
gは地表での重力加速度を指します。
結論は明快です。
反水素原子の加速度は、現在の実験精度内で引力としての重力と矛盾しません。
反重力という単純な説明は、少なくとも現在の実験精度では支持されません。
同時に、精度への注意も必要です。
20%という測定精度は、物理の精密実験としては粗い部類に入ります。
「物質とまったく同じ落ち方をするか」という問いに、この実験だけで完全な答えが出たわけではありません。
現在の実験精度内で引力としての重力と矛盾せず、細かい一致度は今後の測定次第。
この2つを混ぜないでおくと、続報を読むときに迷わずに済みます。


反物質はすでに病院の検査装置として実用化されている
遠い実験室の話に思えた反物質は、実は日本中の病院で毎日使われています。
原理は、この記事ですでに説明したものそのままです。
PET検査は、体内で起きる対消滅を画像にしている
PETは陽電子放出断層撮影の略で、健康診断やがんの検査で受けたことのある方もいるでしょう。
量子科学技術研究開発機構は、PETを「陽電子放出核種で標識した薬剤を体内に投与しPET装置で様々な病態や生体内物質の挙動を画像化する方法」と説明しています(出典: 量子科学技術研究開発機構)。
陽電子放出核種とは、崩壊するときに陽電子を出す原子核のことです。
検査薬そのものが、体内で反物質を少しずつ放出しているわけです。
その先は、対消滅の説明がそのまま当てはまります。
放出された陽電子は体内ですぐ止まり、近くの電子と結合して消滅し、511keVの光子を2つ、互いに180度反対方向へ放出します(出典: ATOMICA「PETの原理と応用」)。
人体の周囲には検出器が並んでいます。
向かい合う2つの検出器が同時にガンマ線を捉えたとき、消滅した陽電子は「ガンマ線検出器を結ぶ線(同時計数線)上にあった」と特定できます(出典: ATOMICA「PETの原理と応用」)。
この仕組みの巧みさは、位置情報を光の飛ぶ方向から逆算している点にあります。
1本だけでは発生源は分かりませんが、ほぼ正反対に飛ぶ2本を同時に捉えれば、その2点を結ぶ直線上に絞り込めます。
これを膨大な回数繰り返して画像を組み立てます。
センサーからの信号を同時性で束ねて位置を推定する処理は、他分野でも見慣れた設計思想でしょう。
違うのは、信号源が体内で起きている対消滅だという点です。
なお「反物質を体に入れて平気なのか」と気になるかもしれません。
体内で生じる陽電子は、そのつどごく微量が発生して即座に消えるもので、まとまった量の反物質が体内に存在するわけではありません。
検査の適応や被ばくについては、実施する医療機関の説明を確認してください。


一方でエネルギー源や推進剤としての利用は、現実的な段階にない
反物質エンジン、反物質爆弾。
期待も不安も集まりやすい話ですが、生産量の数字を置くと見通しははっきりします。
CERNの反物質工場が1年フル稼働して得られる反陽子の総エネルギーが、約500ジュール(100ワットの電球を5秒分)でした(出典: CERN「Antimatter」)。
その500ジュールを得るために動かしている設備は、陽子シンクロトロン、反陽子減速器、ELENAと連なる大規模な加速器群です。
構造として、投じるエネルギーのほうが取り出せるエネルギーより桁違いに大きくなっています。
これは技術の未熟さというより、反物質が自然界にほとんど存在せず、ひとつずつ作るしかないことに由来する制約です。
CERNも、反物質が自然界には存在せず、核反応や宇宙線の反応で生成される単独の粒子が例外だと述べています(出典: CERN「Antimatter」)。
石油のように掘り出せる資源とは、性格が根本的に違います。
そのため、反物質はエネルギー源として実用化されているわけではありません。
研究の主眼は、粒子と反粒子の性質をどこまで精密に比べられるかにあります。
BASE実験が磁場の静かな環境を求めてトラップごと運んだのも、ALPHAが反水素の落下を測ったのも、すべて測定精度の話でした。
反物質研究が向かっている先は、燃料タンクではなく、宇宙がなぜこの形をしているのかという問いのほうです。
よくある質問
まとめ:反物質を調べることは、物質が存在する理由を調べること
反物質は、質量が同じで電荷などの量子数が逆の粒子でできた物質です。
物質と出会えば対消滅してエネルギーだけが残り、電子と陽電子の場合は511keVのガンマ線がほぼ正反対に2本飛びます。
その性質は、PET検査という形ですでに医療現場で働いています。
一方で、E = mc² から出る計算値と、人類が実際に作れる量は別の話です。
CERNの反物質工場が1年稼働して電球5秒分。
この数字を知っておくと、ネット上の反物質の話がどこで飛躍しているのかを自分で判断できます。
そして最大の謎は残ったままです。
同じ数だけ生まれたはずの物質と反物質のうち、反粒子10億個に対して粒子1個だけ多かった。
その端数が、星も地球もあなたも作りました。
なぜ端数が出たのかは、まだ誰も答えを出していません。
反物質を調べる研究は、突きつめれば「なぜ何かが存在しているのか」を調べる研究です。
夜空を見上げたとき、そこに見えているものすべてが対消滅の生き残りだと思うと、同じ星空が少し違って見えてきます。



消えなかったほうに、たまたま入っていた。ぼくらはみんな、その幸運の続きなんだよ。
出典
- CERN「Antimatter」
- CERN「Antimatter atoms produced and trapped at CERN」
- CERN「The Antiproton Decelerator」
- CERN「ALPHA」
- CERN「ALPHA experiment at CERN observes the influence of gravity on antimatter」
- CERN「BASE experiment at CERN succeeds in transporting antimatter」
- KEK キッズサイエンティスト「粒子と反粒子」
- KEK「『CP対称性の破れ』発見から50年」
- KEK 用語集「CP対称性の破れ」
- KEK ILC通信「ノーベル賞でたどる素粒子の発見物語:5 CP対称性の破れの発見」
- KEK 素核研「【特集】K中間子の稀な崩壊を探し、標準理論の限界に挑む〜KOTO実験グループの取り組み」
- KEK「宇宙の謎を解く高エネルギー物理学」
- 日本原子力研究開発機構 ATOMICA「PETの原理と応用」
- 日本原子力研究開発機構 ATOMICA「核分裂」
- 量子科学技術研究開発機構「診断と治療が同時に可能な世界初の開放型PET装置を開発」
- 産業技術総合研究所 計量標準総合センター(NMIJ)「国際単位系(SI)」
- 国立天文台「ダークマター」